山田学区社会福祉協議会

山田学区の歴史的人物

木内石亭(北山田町)

  北山田町の湖岸近くに、「木内石亭址」の標柱が建っています。石亭は「石の長者」といわれ、石のことにかけては全国に知られた人物です。
 彼は享保9年(1724)に大津の下坂本に生まれました。幼いとき、母の実家である北山田町の木内家の養子となり、文化5年(1808)に85歳で生涯を閉じるまで、ただ一途に石を愛し、弄石(ろうぜき)家としての情熱を傾けました。 シーボルトの著書「日本」は、石亭のことを日本先史学の始祖として、全世界に紹介しています。
 彼は若年の頃から諸国を行脚し、一つ一つの石について採取の日、出所、図解、説明等を記しました。この集録がのちに「雲根志(うんこんし)」やその他の著書として編集されました。
 彼は幼名を幾六(きろく)といいましたが、雲根志のなかに、「予十一歳にして初めて奇石を愛し。」とあり、早くから奇石を愛する性癖のあったことがわかります。
 雲根志の前編六冊は、安永2年(1773)に発刊、同8年(1779)に後編六冊が出版されています。石亭が56歳のときでした。天明3年(1783)、60歳のときには「曲玉問答(まがたまもんどう)」、71歳のときには「龍骨記(りゅうこつき)」 と「鏃石記(ぞくせきき)」、73歳のときには「天狗爪石奇談(てんぐつめいしきだん)」を著わし、78歳の高齢で雲根志三篇を出すなど、精力的な努力を続けられました。
 交通の不便な時代に、全国30余ヶ国にも旅して奇石、珍石を収集し、また旅行の先々に友をつくり奇石の交換と収集を飛脚に托してまでおこなっていました。集めた石数は、二千数百点といわれ石斧(せきふ)、石鏃(せきぞく)、 石剣(せっけん)、曲玉(まがたま)などの考古資料のほか、化石、鉱石などもあり、収集場所は全国に広がっています。
 石亭は、木内家の養子として迎えられ、代官としてあとを継ぎましたが、まもなく分家させられています。そのころ、罪に連座して3年の禁銅の身となりましたが、このことが石事をますます石の世界に投入させることとなりました。
 「死後、心に残るは石なり。」との遺書を残し、生涯を石にかけた石亭は文化5年(1808)に85歳の生涯を閉じました。
草津市教育委員会発行の くさつ大好き百科 から

杉江善右衛門(山田町)

杉江善右衛門  杉江善右衛門は文政5年(1822)に生まれ、明治18年(1885)に64歳で生涯を閉じています。
 彼は、明治4年(1871)に米原~大津間に航路が開かれたときに山田港の隆盛を取り戻そうと、明治5年(1872)山田渡船組合を結成し、大津の谷口嘉助らと共に丸子船数隻を就航させています。
 その後、琵琶湖上に汽船が現れたため、汽船を就航させるために「航安組という渡船仲間をつくり、明治9年(1876)山田~紺屋ヶ関間に蒸気船「千歳丸」を走らせています。
 当時の草津~山田間の道路は悪く、交通の便をよくするために道路改修にも命をかけましたが、明治19年(1886)山田丸、末広丸が新造されて就航し、これが後の湖南汽船の前身となりました。 旧の山田港 彼の運輸事業上に尽くされた功績は大きく、明治19年(1886)に草津~山田間の山田街道が完成しています。これにより、草津と山田港を結ぶ山田街道も交通が盛んになり、山田港は旅館や倉庫などが軒を並べて繁栄しました。
山田航路は、昭和43年(1968)まで人々の交通機関として長く親しまれてきましたが、水位の低下とバス交通の発展にともなって、現在は廃止されています。
山田町の元山田港には、彼の功績をたたえ、記念碑(上の写真)が建てられています。
文:草津市教育委員会発行の くさつ大好き百科 から